モオドノヲト| mister it.に係わる考察
mister it. FW2024-25
彼については、唯の物怖じしないと云うのではなくして、常に冷静沈着で居る印象が私の中にあったが、ショーを終えた舞台裏での彼は、珍しくも高揚しているように見えた。初めてのショー(彼のブランドにとって)を全うしたのだから、昂まるのは、生身の人間として至極自然な感情の発露だし、寧ろそうでなければおかしい。着地と効果が巧みに計算された、東京発信らしからぬ成熟(快適で上質。随所に手仕事を散見するが、それでいて品格を備えた、動きの優雅さに満ちている)を備えたプレタポルテ(既製服)としての面目躍如となるショーであった旨を本人に伝えたら、素直に顔を綻ばせていたから、普段の展示会で見慣れていた落ち着き払ったクールな面持ちとは違った横顔を垣間見ることが出来て、此方も、何故かしらホッとして穏やかな気持ちになった。
mister it. FW2024-25
so easy to fill in the margin with run-of-the-mill word.
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「mister it.」は2024-25年秋冬コレクションを2024年3月15日、渋谷ヒカリエにて発表した。ブランドにとって初めてのショーは、極めてオーソドックスなものだった。低めのプラットホームを舞台とした簡易な造作。ショー開始を待つ間の緊張感を、私は久方振りに味わっていた。簡にして的を射た会場演出には、砂川卓也の創作表現を容易為らしめる雰囲気が満ち満ちている。本人は特段そんな巧みの綾を織ったわけではないのだろうが、それは、会場の空気が含み持っていて、そのものを生かしている、眼に見えないもの。そして、味わいや香りみたような醒めた熱量を感じさせる上下四方の空間の拡がり。確かに今、私は渋谷の街に居るのだが、東京に居ることの実感は漸次稀薄になっていく。そんな錯覚に囚われていた。ショーが始まる。ショーとして初めて見るにも拘わらず、いつかどこかで経験したことのように私には思われた。後述するが、このデジャヴュ(断っておくが、この場合は決してネガティブな意ではない)に似た現象が、私をカタルシスへ誘った。それほどのカタルシスを感じられずに淡々と過ぎてしまった今季の東京には珍しく、勿論、刺さるショーは幾つかあったことを記しておくが、兎にも角にも、砂川のショーは、此方の気持ちをスッキリとさせてくれたのである。
mister it. FW2024-25
既に巷間では「mister it.」の報告記事は溢れているだろうから、私は此処に独自の見解を述べておきたい。例えば、「役者が上」と云う言葉がある。言葉の意は、駆け引きの術に長けていることとか、地位や格式が上であると云ったような言葉だが、砂川の創作は、まさにそれだ。正確に云えばこうだ。彼のショーは、既製服は高級注文服(オートクチュール)より一枚上手であると云う命題を見事に実証して見せた。砂川は「couture rhythm.」と謳ってはいるが、彼が押し出した服は、歴とした既製服である。
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Synchronicity,it is about forgiving each other, confirming each other, and nodding to each other.
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1997年、「エルメス」の女性服のクリエーティブディレクターにマルタン・マルジェラが就任。マルジェラが手掛けた「エルメス」の最初のショーは、1998年3月、パリ8区のフォーブルサントノーレ通りに居を構えるエルメス本店にて発表された。「伝統」「職人技」「永遠」「高級感」「日常」「快適」「優雅」等々の抽象的な概念を、それら一つ一つが尤も「エルメス」の本質的な要素なのだが、メゾンの特質の重要な部分だけを抽出してそれ以外は捨象すると云うラジカルな手法をマルジェラは選択した。静謐な空気に包まれたマルジェラ時代の初期の「エルメス」は、極めて落ち着き払っていたが、それだけに、彼の創作道徳の、他所には見られない一種の「きわどさ」が浮き彫りになっていたように思う。若しかすると、既製服は高級注文服より一枚上手なのではないか。斯様な確信めいた考えを、往時の私は懐に仕舞い込んでパリのプレタポルテとオートクチュールの取材を続けていた。
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No walking, no running, yes. It’s a parade.An endless series of daily stories and his own stories.They form a single pattern like the scraps on a textile.
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既製服が高級注文服より一枚上手だと云う理由
砂川の創作道徳の形成には、マルタン・マルジェラの影響が大いに与している。東京でのデビュー(2018年)以来、砂川の作品を追い掛けてきた人であれば、概ねそのことは承知していると思う。事実、砂川は、マルジェラが一線を退いた後の2012年より2015年迄、メゾン マルタン マルジェラ(現メゾン マルジェラ)にて、創業者の衣鉢を継ぐメゾンと云う集合体の意識のもとで研鑽を積んできた。曩にデジャヴュと云ったが、「mister it.」のショーがマルジェラの「エルメス」でのデビューや、況してや1990年代後半より2000年代前半のマルジェラ本人のクリエーションに似ていると云うつもりは毛頭ない。両者の違いは画然としている。だが、相違があればこそ、却って砂川のクリエーションには、好い意味で、マルジェライズムの或る種の影が生じ、その影は影として見る側の想像に任せてしまうところがある。彼は、眼に見たものだけを写しても、眼に見えないものまでを見るように見る側に強制する。モードの表層をなぞり、流行に塗れた「ほどよさ」を粗製濫造したクリエーションがやたらと眼に付く昨今、マルジェラ学派に固有の「きわどさ」と云うこと、なかなかに貴重なものだと私は思う。ブルジョア(富裕層)よりは市井の人々の内に認める様々な個性にキッチリと注がれる温かい視線。創作の軸足を仏の伝統的な工芸技術に置きながら、排他的であることを潔しとしない自由で開放感のある創作意欲。解体と再構築(例えばリメーク)、脱構築と云う前衛に大きく振れようとも、着る側の身体性を蔑ろにしない思慮深い創作道徳。刹那的な衝動ではない永続的な価値を付加しようとする創作的試み。これらは皆、砂川のモノ作りに通底する特質である。彼の作る既製服が高級注文服より一枚上手だと云う所以はそこにある、と思う。
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Throw away the past and tomorrow, and embrace the emptiness in your eyes. It smells a little like love. That’s the perfect days.
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最後に蛇足めいたことを追記しておく。些か我田引水式な論だが、強ち的外れではないと自負しているところもある。「couture rhythm.」と云う惹句は、今季の彼の作品の至る所に散見する。「仕立てのリズム」とコレクションノートは記している。また、「服が作られる過程で必然的に生まれるリアルな音。人と人との触れ合いに潜む眼に見えないリズム。楽しくなるリズミカルなテンポ。ブランドに寄り添うそのリズムが波紋のように拡がり、ショーのゲストや服を着る人へと伝わっていくことを願っている」とも。
mister it. FW2024-25
The heat that touched my cheek was nostalgic and gentle. Surely, my eyes reflected in you will spend the days with sunlight filtering through the leaves without losing you.
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仏語に「リトミック」と云う言葉がある(英語では「ユーリズミックス」)。これは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、新教育運動の絶頂期に、スイスの音楽教育家エミール・ジャック・ダルクローズが提唱した音楽教育の手法である。勿論、砂川は音楽家を志して渡仏したのではない。だが、ここで私は、このリトミックと云う概念を喩えに、彼の創作的な礎の形成に尤も影響を及ぼしたパリ時代に思いを馳せてみたい(私の得手勝手な言葉の聯想に過ぎぬが)。そもそもリトミックと云う教育方針は、楽しく音楽と触れ合いながら、基本的な音楽能力を伸ばすと同時に、身体的、感覚的、知的にも、これから受けるあらゆる教育を充分に吸収し、それらを足掛かりに成長するために、幼少期の生徒が個々に持っている潜在的な基礎能力の発達を促すことを第一義として組み上げられたものである。その伝で云うなら、革新的なメゾン(メゾン マルタン マルジェラ)で彼が熱心に修得しつつあった律動法(リトミック)とは、即ち、或るリズムを身体動作(この場合は、人の身体に添った立体裁断でありドレーピングであり、想像力を膨らませるための手仕事に例えられよう)によって把握させようとする鍛錬そのものであった筈である。くだんのメゾンは、砂川に、楽器の演奏訓練を早期より闇雲にさせはしなかった。まず音を聴き、それを体感し、理解し、その上で楽器に触ってみることを許した。次第に音を組み上げて音楽を作ることの楽しさを身体全体で味わわせ、その喜びの中で、自ら音を出し、奏で、そこから旋律を作っていくことへの興味と音感を養い育てることを意図していたのではないだろうか。残念ではあるが、実際のところ、アトリエとしての集合体の意識が彼をしてそう仕向けたかどうかは想像の域を出ないのだが、少なくとも、砂川卓也と云う個人の意識が、集合体の意識と共振することで、彼の創作に一つ一つのステップとユニークな足跡を刻み付けたことだけは想像に難くない。凡ての人間は違ってはいるが、凡ての人間を同一にしているのは、独自性なのだ。砂川の創作は、オートクチュールと云う形式に新たな解釈を与える試みである。それは、オートクチュール的な楽曲の重厚なリズムを、砂川のアトリエの持つ技巧と調和した身体能力(例えば、ドレーピングとかラッピングとかの服作りの腕前)を以て、日常と云うオートクチュールの特権階級的高み(我々の日常とは少しく違った風景)とは相容れない軽妙洒脱なリズムに書き換えることに他ならない。彼の服は、オートクチュールとは決然と一線を画す開かれた価値を有している。だから彼の服が、かくも風通しの好い風景の中を、他人に気兼ねすることなく自由に逍遥する様子を想像するのはさして難しいことではない。(文責/麥田俊一)
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