FW24-25 PARIS MENS|虚構と現実の狭間を覗くため。レンズを通したジョナサンの美しき絡繰り。それを通すことで初めて見えてくるものもある
LOEWE FW2024-25 MENS Photo: Courtesy of LOEWE
2024-25年秋冬パリメンズを振り返る第一回目の稿で記したが、それはデザイナーの宿命(一部ではあるが)ともいえよう。彼らは、先達が残したアーカイブとの対峙を強いられている。メゾンが擁護してきた規範と、デザイナーの独自性との軋轢が、程度の差こそあれ生まれるはずである。あまりに受動的に影響されはしないかと腰が引けた所作では、そのメゾンの格式が微塵も表現されないであろう。逆にアーカイブに倣いすぎてスタイルをそのまま引き写すような胡乱な作法では、価値はない。メゾンの歴史を生かすも殺すも、デザイナーの明確な視座にかかっている。サンプリングやカットアップ、リミックスの作法が最早、前衛でも特殊でもなく、日常的なツール化した昨今、クリエーションにおけるそれは、尚一層の精度の高さが要求される。しかし彼らは、その手法を簡単に放棄するわけにはいかないのである。
LOEWE FW2024-25 MENS Photo: Courtesy of LOEWE
近過去と近未来、ドレスアップとドレスダウン、夢と現実、秩序と無秩序、完成と未完成、正確さと曖昧さ、或いは希望と絶望…。幾つもの要素が交錯する、イメージの重層構造を呈するこの図式が、一種の甘美なるものへと向かわせるメカニズムそのものといえるだろう。常に現実世界には、鏡像という異なる複製のフェーズが用意されていて、仮構の世界に陶酔することによってカタルシスを行なうことも、或る意味で現実的なことなのだ。ファッションにおいても虚構(=ファンタジー)は必要不可欠な要素である。ジョナサン・アンダーソンが手掛ける「ロエベ」の2024-25年秋冬メンズはコラージュされた現実感を提示する。どのように言及するかというメディア的な方法論に触れつつも、何を発言していくかという思考そのもの、つまり問題提起が重要なのだ。そこに男性性に対する新たなるステートメントとも捉えられるようであり、あらゆる事象が増幅する現代を模してもいるような男らしさのアルゴリズムを乗せて。
LOEWE FW2024-25 MENS SHOW VENUE gendarmerie nationale-garde républicaine
会場内の様子。ホーキンスが手掛けたビデオコラージュ
ショー会場はパリ4区のフランス共和国親衛隊の馬術トレーニングアリーナに設けられた特設舞台。会場に入ると、米国のアーチスト、リチャード・ホーキンスによって制作されたアーチ状のステンドグラスが嵌め込まれた窓を模したデジタルコーラジュが並ぶ。そこには、1945年から78年にかけて「ロエベ」のウィンドウディスプレーを手掛けてきたホセ・ペレス・デ・ロサスによるデザインを下地にブランドアンバサダーやウェブ上で話題になっている著名人の映像や画像といった雑多な情報を溶け合わせたビデオが映し出されている。2023年11月にリニューアルオープンされたカサロエベ表参道にも展示されているホーキンスの作品は、現代のSNSやセレブリティー文化、お化け屋敷やアメリカンインディアンの体験といったカルチャー、セックスツーリズム、ギリシャやローマの彫刻といった題材をベースに、ペイント、彫刻、映像などあらゆる媒体となり、社会構造そのものを再考することに対する価値と視覚的な歓喜を誘発させる。それを手掛かりに、新たな男性性を引き出そうとする。そのような「男性性」や「女性性」への言及は、彼の創作を語る上で、避けては通れない命題のひとつ。
これらホーキンスの作品に纏わる連鎖に関して、ジョナサンは「私はリチャード・ホーキンスの作品やSNSの映像を通して、男性のあり方、男らしさ、そしてセレブリティーカルチャーのあり方やモデルの存在そのものについて考えていました。インフルエンサーや彼らを追いかけるファンのコミュニティーの中ではあらゆることが起きています。メディアを通して360度見渡せるようになった現在、洋服の組み合わせからファッションの未来まで、それらが何を意味するのか。そこに夢中になったのです。すべてが一つに繋がっているかのように、強制的にルックを変換させることだって可能ではないか、というアイデアが浮かび上がってきました。作品群の随所に現れた靴は靴下に取り付けられ、そしてパンツとジャケットともひとつになっているワンピースのようなスタイルは、あらゆるアクションや子供のような予想外のアイデアを閉じ込めたような感覚を現しました。ベッドからそのまま起き上がったかのような出で立ちやジャケットの中に洗濯物の山を敷き詰めたかのようなカタチが好例です。それらはあらゆる事象に対する検証と更新のようなものです。それが一つに収束されたように思えます」と語っている。
会場の様子。リチャード・ホーキンスの作品が疎らに展示されている
現代でいうのであれば、アンドロジナス(両性具有)という概念がある。それは、男女両方の性を持っていることで、ユニセックス(中性的)とは意味が異なる。ユニセックスという言葉には、未だ未成熟の少年や少女のそれを指す意味合いを含んでいるが、アンドロジナスには成熟した性を両方併せ持つ進化した人間というニュアンスがあるように感じさせる。このジェンダーに対する意識をジョナサンは幾度となく言及してきたが、どうやら今回のそれは今までとは少しく異なるようである。振り返ると、デジタルに侵食された日常の作られた世界を暗喩するかのような2022-23年秋冬、デジタルファブリケーションとオーガニックの高次元の融合を思索した2023年春夏、この時代とそこにおける物質性を問い質すかのように還元主義と向き合った2023-24年秋冬。そして、人の視点に着目した上で写し出されるプロポーションを探究した2024年春夏。それを経て改めて男性性と向き合う瞬間。ジョナサンの示唆するところは、社会集団や社会的立場(階層や性別)において思想のあり方や生活の仕方を根底的に制約している観念、信条の体系に対して、疑念や皮肉を唱えることで、モダンを構築しようと試みているように感じさせる。
これを踏まえると、ホーキンスの個性的な感覚世界との交差は所謂モードとアートの結び付きとは一味違うのではないか、と予感させる。
LOEWE FW2024-25 MENS
ジョナサンは、詩的情操に溺れることなく思考や意識に向き合う。それは記録の冷静な観察、分析(抽象化)そして定着(具現化)であり、彼の資質は「いま」について言及するために、「過去」「現在」「未来」という時間の概念を持ち出している。それはフランスの音楽家であり卓越したサウンドコラージュを作風とするフレデリック・サンチェスによるショー音楽(ニルヴァーナによるデヴィッド・ボウイの『The Man Who Sold The World』のバーやジョイ・ディヴィジョンの『She’s Lost Control』など)にも見事に反映されている。
LOEWE FW2024-25 MENS
実用的なアイテムには新たな重要性と意味が与えられ、それはシンプルなシャツとホーキンスの作品を無数のビーズ刺繍で全面に表現されたパンツの組み合わせなどに現れており、日常にありふれたものと貴重なものとの組み合わせは、それぞれに備わる美学を覆しながら、これまでいない重要性をもたらすと同時に、現実を際立たせるフュージョンとなる。意外性に満ちた形でぶつかり合うカタチ。そして反転し、挑発するかのような素材や刺繍。男前なアイテムに慌てて家を飛び出したかのようなジェスチャーをシューズ、ソックス、パンツと同化させることで、彫刻的でありながら日常性が滲み出る。服の構造が、元々あった服と身体との調和に新たな均衡を与えている。
LOEWE FW2024-25 MENS
アトリエの手を信頼し、アートに耳を傾け、喧騒の中でもゆっくりとした時の流れの過程に焦点を当てることによって、「ロエベ」の伝統とジョナサンの個人的な意識に深く結び付いた幾何学的な題材、色の重なり、記号、背景、完成されたカタチと逆に未完成なカタチを男性のワードローブの構造を応用したソフトなラインやカット、そして装飾などルック全体へと変換している。それはモードとアートの結び付きではなく、それらにある概念、文化、観念、回想、引用から現れる新たなアイデンティティーの対話であり、それは特に作品群のスタイル表現に顕著に見られる。
ショー後のジョナサン・アンダーソン
最後に、ジョナサンのコメントの一部を引用してこの稿を締め括りたい。「もう画一的な概念は存在しません。以前まではファッションの世界において、いま起きているのはこのムーブメントについてだ、と断定できた時期もあったでしょう。ただ、いまはもうムーブメントさえ存在しないと思います。かつてサブカルチャーはストリートにあったと思いますが、いまはオンライン上にあります。セレブ文化、モデル文化だけではなく、私たちも自分自身を表現する方法を自分で決めることができます。装いとはこれだ、といったユートピアを断定することができません。いまは、ブランド全体や個人をどのように表現するのか、あるいは外の世界に対して自分自身をどのように認識させるか、という教訓的な意味合いがあると思います。それが未来に対して何を意味するのかは予知出来ません。しかし、私たちがどこにいるのか、どこへ向かっていくのかという観点から見ると、それが単一のプラットフォームに成り得るという点でエキサイティングなことではないでしょうか。ブランド、著名人、消費者、のようにテレビや映画、新しいタイプの媒介…それらがメディアコラージュされているのが興味深いのです。ファッションの着地点は、未来を予測することです。あるがままに対象物を観察し、規範を再解釈する。それは策略を扱うようなものであり、靴下に取り付いた「何か」のようなもの。それに対して奇妙な言い方かもしれませんが、「これはあなたが履いているものです」と断言しているようなもので、そこから逃げ出すことはできません。メディアにも同様のことがいると思います。『いま』から逃げ出すことはできないのです。今季は、それを打ち破ろうとする緊張感を孕んだ挑戦的な作品だったと思います。楽しいコレクションになりました。楽しみたかったのだと思います」。