PARIS MENS SS2025|私たちからドリスへ。肉眼ならぬ透鏡を通した花園。それを通すことで最後に初めて見えてきたものもある。
Photo: Kaj Lehner / Courtesy of DRIES VAN NOTEN
ドリス・ヴァン・ノッテンがファッションの世界から身を引く。
2024年3月19日「A letter from Dries」というタイトルの通達があった。ドリス本人の言葉で書き記されたステートメントは、懐古趣味でもこの世界に対して疑念を示していたわけでもない。次の未来に向かって歩みための過程である、という意思表示であった。文化や歴史的背景を自らの知性によって解釈したカッティング、鮮やかな色彩感覚、人の純粋な自発性を優しく撫でるかのように「触りたい」と思わせる質感。引退するということは、そのようなドリスの手の香りが残るデザインに触れる機会を失うということを意味する。しかし、フレグランスやビューティー、ショップのデザインといった仕事はこれまで通り継続し、何よりメンズ、ウィメンズコレクションのアドバイザーとしてブランドに残ることを宣言している。2025年春夏メンズを最後にデザイナーとしての仕事を終えたにも拘らず、現に「ドリス ヴァン ノッテン」は2025年春夏パリウィメンズのファッションウイークに参加を予定している。
彼が何故、デザイナー引退を決意したのか。理由を想像するのはやぶさかではないが、ドリス本人からの手紙以上のことを憶測で物を言うほど落ちぶれてはいない。昨今垣間見るデザイナー退任をブランドや本人が何もコメントしていない噂程度でSNSや記事にすることに対しては甚だ以て奇妙に思う。
DRIES VAN NOTEN SS2025
私はこのラストショーまで彼に一度も会ったことがなかった。もちろん、先様の方でも、特別に私に会う必要を認めてはいなかっただろう。だが私には、彼が手がけた「ドリス ヴァン ノッテン」の記憶がある。それで十分なのだ。一面識もない彼のコレクションに纏わる稿を、これまで随分と書いてきた。ドリスを書くということは、私にとって何だか清々しいことであるように思えてならない。周到に準備された純粋主義に深く関係するコレクションノートを読み返すと、ファッションやそれを作る人物に対して心惹かれ、浄化されるような気持ちになることに気づいたあの頃を思い出す。私はドリスに対して、何ら義理があるわけではなく、何らの負い目があるわけでもなく、ただ私の純粋な自発性において彼の創作道徳と作品について書くことができるからだ。おそらく、原稿を書く者とその対象者の関係は、このような純粋な自発性において結び付くことが最も望ましいのではないだろうか。綺麗事をいっているのではなく、世間的にはその反対があまりにも多いのだ。
DRIES VAN NOTEN SS2025
6月22日(土)20時30分。場所はラ・クルヌーブの中心にある工場跡地。此処は2004年10月に発表された50回目のショーの会場となった場所。ドリスにとって129回目のショーであり、150回目のコレクションとして相応しい舞台である。会場に入ると、招待客はカクテルと軽食でもてなされ、思い思いの話を募らせ、再会を祝い、喜びと悲しみを分かち合う。そこにはブランドの服を纏っただけのインフルエンサーやセレブリティー、彼らを見に来たファンの姿やパパラッチもいない。ただ純粋にドリスの晴舞台を見届けに来た人たちが集まっていた。米国の俳優、ノーマン・リーダスと少しの間、酒を飲みながら談笑する機会があったが、マネージャーも付けず、「友人であるドリスのショーを見に来たんだ」と語っていた。38年のキャリアを誇る彼の勇姿を見に、アントワープシックスとして活躍したアン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクやダイアン・フォン・ファステンバーグ、ハイダー・アッカーマン、ピエールパオロ・ピッチョーリ、グレン・マーティンス、トム・ブラウン、ヴェロニク・ニシャニアンなども来場。彼らと挨拶を交わした後、飲み物を取りに行き会場を見渡していると黒幕が引かれたバックステージからドリス本人が登場。最初は誰にも気付かれず、偶然目の前に居合わせたからか、彼は笑顔で「Thank you for coming」と言いながらハグをしてくれた。何かを聞くわけでもなく私も「Congratulations and thank you」と返したのであった。その後もドリスは旧友たちとの対話を楽しんでいた。
ドリス(本人、写真右)と『Business Of Fashion』創始者のイムラン・アーメド(写真左)
Photo: Adam Katz Sinding / Courtesy of DRIES VAN NOTEN
あくまでも私感と断りを入れておくけれど、私は貶下的な意味を含めずに「アルチザン」という言葉を使いたいと思うが、おそらくドリスの資質は、「アーチスト」と雲の上の存在として祭り上げるよりも、むしろ「アルチザン」として少数者の間に熱愛されるに相応しい資質なのではないだろうか(彼の影響力を考えると矛盾しているのだけれど)。この場合の「アルチザン」は、純粋な職人よりも職人的芸術家に近い意である(デザイナーを芸術家に喩えるのも妙なのだけれど)。しかし彼が字面通りに、職人裸足的な一徹な技術者であるといいたいのではない。あまつさえ、創造的精神が欠落していると誤解されては元も子もない。要するに、このブランドにおけるドリスの多元的な花園を創出するための、彼の広範な意味での異種混合の手法、折衷主義的な技巧の大胆にして繊細巧緻を、アルチザン的資質に喩えたのである。そこには寧ろ、特異な創造的精神の活発な運動が必要とされる。
DRIES VAN NOTEN SS2025 SHOW VENUE
DRIES VAN NOTEN SS2025
Photo: Kaj Lehner / Courtesy of DRIES VAN NOTEN
カクテルパーティーも一頻り、21時50分を過ぎた頃、漸くキャットウオークが目の前に広がる。うようよと畝るまさに生命が宿っているかのような銀箔が敷き詰められた長いランウェイが現れた。静寂に包まれる中で始まったショーのファーストルックは、端麗なウールとリネンのコートを着たアラン・ゴシュアン。アランは1991年の初めてのメンズのショーでファーストルックと務め、その後34回ドリスのショーに出ているモデルである。「ドリス ヴァン ノッテン」の視点は確実にこの先にある。その過程を描写する。ベルギーのビジュアルアーチスト、エディス・デキントの超現実的で変革性のある芸術世界と人間のありふれた日常にある素材の境界線をパフォーマティブに探求する作家性に着想を得ている。シルエットはアルチザンの資質に然る可きシルエット、つまり現代の紳士服における考察がなされている。シングル、ダブルブレストのスーツやコートは柔らかく細く、そして長い。またファブリックもドリスの流儀である「危うさ」が技法として昇華される。例えば、1000年前に遡る日本の墨流しという伝統的なマーブリング技法。日本語で「flower=花」と「fire=火」を掛け合わせた「花火」をモチーフに夜空に舞う葉と花を連想させる自然の不完全さと片面仕上げによる一着一着が異なるテクスチャー、絵柄になるという仕掛け。ドリスはこのような異種混合の技巧の追求に異常なまでの情熱を注ぎ、繊細巧緻を極めたダイナミズムでスタイルに描き込んでいるが、スタイルの背景にある突き抜けるもの、いわばその深さといったようなものが、あまり言及されていない。彼の世界は表面(肉眼で見える物の意)で成り立っている世界である。表面だけで成り立っている世界なので、(直近でいえば2022-23年秋冬ウィメンズのような)デカダンスも一種の装飾、極論すれば一種のポーズでしかない。もしかしたら技巧を探究するあまり、スタイルの背後により滲み出くるすべての曖昧な物を、潔癖に拒否しているのではないか、と思わせるほどである。肉眼に見える色柄、装飾、形に執するあまり、眼に見えないメタフィジックの侵食を、意識的に阻止しているのではないだろうか。ファイナルルックはサテンの付属が印象的な美しいブラックのロングコート。単色ながらなんとも優しくて繊細で美しい濃淡。そこにはゴールドシルバーのパンツと、サンダルを合わせた若い青年モデル…それこそ将来のアランになるだろう若い男性にバトンを繋ぐかのようであった。ベストアルバムでもなければリマスターアルバムでもない、紛れもなくドリスの新作である。だからこそ、66歳を迎えたデザイナーだが、若い層を惹きつける。
ショー後のバックステージの様子
Photo: Kaj Lehner / Courtesy of DRIES VAN NOTEN
「これは私の129回目のショーであり、これまでのショーと同じく未来を見据えています。今夜はいろいろなことがありますが、グランドフィナーレではありません。私は、かつてマルチェロ・マストロヤンニが、プルーストが想像した失われた楽園のその先にある、逆説的な「未来へのノスタルジー」について語ったこと、そしていつか愛情をもって振り返ることができると知っていながら、私たちが夢を追い求め続けることについて考えます。私は自分の仕事を愛し、ファッションショーをすることを愛し、ファッションを人々と分かち合うことを愛している。クリエイションとは、生き続ける何かを残すことです。この瞬間の私の感覚は私だけのものではなく、いつも、いつまでも、私たちのものなのです」。これは、ドリスが私たちに残した最後の言葉である。この言葉は時間として生きている。優れた知覚を帯びているといえる。衝撃に一瞬たじろぐが、思いの外、抵抗なしに専ら我々の想像力に媚びる要素もあるからである。それが彼の言葉の強みであり、同時に弱みでもあるが、ともすれば卑俗に堕ちそうな、危うい綱渡りをやっているところが何よりも魅力である。安全圏を構築し、そこに花園がある。だがそこには危険な毒針を持つ蜂の存在も忘れてはならない。私はドリスのラストショーだからといって締めに相応しい言葉を用意するよりも、今後もこのブランドを観測していく、その過程として描写したい。