PARIS MENS SS2025|鋭い輪郭を描く「LOEWE」2025年春夏メンズ。装いにおける強烈な存在感を問うことは、閉塞感を打破する処方薬となり得る
Photo: Courtesy of LOEWE
主題に共鳴することにも増して、もっと枝葉末節の、言い換えれば、皮膚感覚に近い部分での共鳴があって然るべきである。コレクションの全体像を俯瞰的に捉えることも大切だが、「ロエベ」2025年春夏メンズは、一着の服の持つ強さ、鋭い輪郭を描く服それ自体の持つ強烈な存在感(価値や意義)に眼を奪われた。だがしかし、思慮深き読者においては、主題と枝葉末節は、実は等価であるという事実を再認識するはずである。一着の服が何にも増して「強い」というのは、思うにそういうことなのだろう。
Photo: Courtesy of LOEWE
こちらとしては、存分に波長はあっているつもりなのだが、往々にしてザラザラした違和感を覚える。「ロエベ」のショーはいつもそんな風な感じだ。もちろんこの違和感こそ、メゾンのお値打ちであり、ジョナサン・アンダーソンの創作の至極の勘所である。この違和感は、服と見る側に、ほんの少しの隔たりを生み(容易く縮めることができる距離なのがまた心憎い)、この少しのインターバルの隙に、服はこちらに思案の契機、知的好奇心を刺激するシグナルを供してくれる。
こうした間合を見計らうことで、かの隔たりは取り除かれ、アクの強さを個性として捉えることができれば、清々しいほどのカタルシスを得ることが可能なのである。メンズコレクションのショー会場として親しみのあるパリ4区、フランス共和国親衛隊の馬術トレーニングアリーナ。「木材で覆われたショースペースの広大さと、そこに散りばめられた個人的なオブジェクトの物質的なリアリティ。ミクロとマクロの、絶えまない相殺」。ファーストルックは、シルクモヘアを合成樹脂のような張りと弾力のある質感のオリジナル素材で仕立てたタイトなブラックスーツに、キジの羽根のヘッドピースがモデルの顔の前をユラユラと垂れている。これについてジョナサンは「何故、キジの羽根を採用したか?それについては明確ではありません。ただ、顔を分断させたり、隠したかったのです。人の顔の真ん中に線を引くようなアイデアが起点となっていて、動くと一種の錯覚が起こるような効果がある。それは、自然の成り行きの中で最高到達点だと思います。自然界の考え方は番度素晴らしく、メンズモデルが階段を上っていくのを見ると、催眠術をかけられているようにも見えます。一種の畝りのようなものを感じますし、ぼかすという意味でも大変興味深いのです」と語っている。
マザーオブパールや腕時計の金属ストラップのようなパーツを組み合わせたトップス、巨大なジャカード織のトップスとなったロゴ、クラフツマンシップの極致ともいえるフェザーのテクスチャー。例えば、ラディカル(今季のコレクションのみ敢えてラジカルをラディカルと明記する)とグラジュアル、クラシックとモダン、本物と偽物、成熟と未熟、洗練と粗野、陽と陰、現在と過去…このような二元論的な要素を巧く右往左往させ、時に融合し、自由な感覚で遊び、リュクスな緊張感を孕むのが、この場合の定石だが、ジョナサンは前述した通りのザラザラとした違和感を敢えて表出させ、臆せずそれを感覚へと昇華し、遊んでいる。この感覚こそ、現代における解毒薬の一種ではないだろうか。
LOEWE SS2025 MENS invitation
LOEWE SS2025 MENS SHOWSPACE
Photo: Courtesy of LOEWE
この感覚を極上の幻想世界と往来するアイデアは、閉塞感を打開する確かな処方薬となっている。ではその起点はどこにあるのだろうか。このショーの招待状にもなっているピーター・ヒュージャーの一足のハイヒールの写真(過去に「ロエベ財団」は「ロエベ」のグランビア店ギャラリーにてピーター・ヒュージャーとデイヴィッド・ヴイナロビッチの写真展を開催したこともある)、アーチストであるポール・テックの『ハーメルンの笛吹き男』のストーリーに基づいて制作した「The Personal Effects of the Pied Piper」、カルロ・スカロパが製作したイーゼル、チャールズ・レニー・マッキントッシュが手掛けた椅子。これらは20世紀の最も独創的なアーチストたちの声を伝えるジョナサンの私的な一群のオブジェクトである。
それらは米国の作家、スーザン・ソンタグが『反解釈』(1966年発行)の中で提唱されている「作品を解釈するよりもその感覚的な喜びを重んじる“芸術の官能美学”の必要性」に呼応する。ソンタグは、『反解釈』に所収されている「キャンプについての覚書」にて、キャンプを「不十分な深刻さ、経験の劇場化の感性」「感覚の自然な在り方よりも、それを人工的に誇張するような感性」と言及している。
「ラグジュアリー文化」の格式、「前衛」の潜在的な葛藤への極限的な表現と区別し、彼女は文化的な価値基準としてキャンプを位置付けている。世界に対して徹底的に肯定的で審美的な態度でありながら、その態度を滑稽であると自認し、自らを面白がる皮肉な視線を伴った生き方。そのようなキャンプの感性は、自分らの異質さをパフォーマンス化(ジョナサンのいう「破綻した”ミザンセーヌ(舞台演出)」にも通ずる)して、周囲の世界や社会的な制度を異化していくことができる。つまり、自己への再帰的な言及を欠かすことなく、同時に自己のアイデンティティーを、受け入れつつも、その生成自体を軽やかに問題化していく感性である。「キャンプ」なデザイナーは、愛情を注いでいる対象を表現することには誠実であるが、同時に「真面目さ」を窮屈だとして嘲笑う。
本質的に、キャンプとは一種の審美主義であり、世界を芸術現象として見る手法でもある。その基準は、美しいか否かではなく、その人工的なスタイル(様式)の在り方であって、それがどのように「度外れ」であるかだ。例えば、女装する男を侮蔑的に面白がるための女装は、キャンプにならない。それは「自らの主題と要素に対する軽蔑」であって、それであってはならない。女装自体に焦がれるまでの情熱を注ぐような女装であれば、その「度外れ」はキャンプになる。もちろん男装も然り。そういう意味では、キャンプとは何か一般的な観点からは異常に見えることをしようとする試みのことである。ただ、異常といっても、特別とか、魅力的なという意味においてであることが多い。また、作られたモノや人々の行動に見出される特質のことでもある。だから、キャンプな眼差しで、何かをキャンプにすることもできるかもしれない。しかし、それ自体キャンプな映画や服装、家具、歌謡曲、小説、そして人間などもある。キャンプ芸術とは、屡々装飾的芸術のことであって、内容を犠牲にして、目見に訴えるスタイルなどを強調する。ただし、まったく内容のないようなものがキャンプであることは殆どない。
「キャンプ」的であることは、人工的でありながら都会的で、誇張されていて何処か外れている、という要素を含んでいる。純粋に自然界のものは決してキャンプではありえない。「キャンプ」趣味は、一般には認められていない真実に惹かれることがある。男性的な男の最も美しいところはどこか女性的、とか、女性的な女の最も美しいところはどこか男性的、とか。だからキャンプはアンドロジナスに惹かれる。でもそれもやはり単純ではない。性でいうところの、「わざとらしくてどぎつい女らしさ」や「誇張された男らしさ」、キャンプにおいては「男」と「女」の交換可能性、「人」と「モノ」の交換可能性が重視される。要するに、キャンプとは一種の愛情…そう、人間性に対する愛情なのだ。それは、勝敗や性格の奇妙な過剰さといった判断ではなく、愛でるのである。キャンプ「趣味」は、それが楽しんでいる対象に共感する。この感覚を身につけている人は、《キャンプ》というレッテルを貼ったものを笑っているのではなく、それを楽しんでいる。この点においてはジョナサンの創作意識において通底している。
Photo: Molly Lowe / Courtesy of LOEWE
前稿でも記述したが、ジョナサン・アンダーソンも時代に対する歴とした考察を持つし、そのジェスチャーをコレクションに転換させている。創作に纏わる自室に籠っているようでありながら、世の中との密接に関わり合い、厳格なメゾンのDNAと自己のアイデンティティーの均衡と保ち、ジョナサン流のメチエを軸とする。だが、ラディカリズムに対しては節度を持って向き合っているように感じさせる。だからこそ、ショー後の公式のコレクションノートには「A Radical act of Restraint(ラディカルな節度)」というステートメントのみだったのだろう。それは現代における創作のメソッドに新たな可能性を提示しているに他ならない。