PITTI’S NOTE|Underlined section by SHINYAKOZUKA: SHINYAKOZUKA AW2026-27 REVIEW at Pitti Immagine Uomo 109

Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
―飛び切りの寓話を用意しているブランドに横たわるズンとした堅実性、すなわちブランド立ち上げより続く膨大な時間という「空間」には、ふとした瞬間の表現を容易ならしめる構造が宿っている。―
敢えて時間の幅、時間の厚み、時間の深みを空間に喩えてみた。イタリア、フィレンツェの地に育み培われてきた伝統的な手工芸や様式美といった残響は、多様で異なる要素の中に「らしさ」を求める自由闊達で放浪的な探索を経て、様々なカタチを与えるために、彼等は、何を作るか、を第一義とするより、如何にして作るかを大義としてきた。すなわち、どのように作られたかという過程にモノ作りの主たる意味合いを据えた。この辺りはショーを終えたばかりのデザイナー、小塚信哉とブランドのクリエーティブ・ディレクションを担う梶浦慎平の談話を元に後述する。


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
1月14日、「SHINYAKOZUKA」は、第109回ピッティ・イマージネ・ウオモ(以下、ピッティ)にて欧州での初のランウェイショー形式で2025-26年秋冬コレクションを発表。招待状は、ブランドロゴとショー会場のアドレスが書かれた片手袋。
これについて小塚は、「当初は普通に手袋だけだったのですが、それだけだと味気ない気がして…物語の筋書きにある『持ち主が帰るべき家や灯台までの足取り』をマップとリンクさせました。フィジカルの招待状自体、ブランドとしては初めて用意しました。誰もブランドのことを知らないことを念頭に、コレクションを発表するシチュエーションが久しぶりだったので、自己紹介的な意味合いを込めています」と語る。


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
どのように作られたかという過程に焦点を当てることは、自ずと己の時間の概念と向き合うことになり、その時間は痕跡を残している。それはブランドの象徴を紐解く様々な参考文献を通してのみ得られるのではなく、創業以来培われた下地と、その時々に応じて受け入れられてきた進歩と、それらに裏打ちされた素材とテクスチャー、細部の装飾に容易く見出すことができる。ましてや、ブランドとしては初の海外でのショーだ。番度であれば説明を省く箇所にも敢えて下線部(アンダーライン)を設けて、明示する。その確かさ、明らかな側面は初期の中枢としていた「Blur(ぼかす)」「Vague(曖昧)」「Unclear(不明)」「Hidden(隠す)」を逆手に取る形になっているが、どうもそういう訳ではない。梶浦はこう話す。
「東京で発表していた時はゲストが『SHINYAKOZUKA』の世界観を既に理解した状態でショーに来場されるため、説明不要が適っていたけれど、今回はそうはいきません。事前に配布しているコレクションノート(『SHINYAKOZUKA』のコレクションノートにはコレクションの説明ではなく、物語の筋書きが書かれている)を読んでもらえないことを前提に、直感でその世界がスッと入ってくるかどうか、がチーム内の判断基準の一つになっていました。ブランド固有の原理的な嗜好性を再提示していたと思います。その気配は生地選びの段階で既にありました。ニードルパンチやハイウエストのコートは、初期に度々散見された技法や仕様ですし、冬の情景も往時は度々出てきていた風景。小細工を入れずに『今』にダイアルを回転させました。Issue#6(2025年春夏)のときも総集編のような内容でしたが、あの時は過剰なモディファイがあったと感じます。もう少し生々しくというか、アイデアとか閃きを重視することで、軽くなったと思いますし、それは明らかさ、確かさに繋がっているのではないでしょうか」。
観察と定着は常に相関関係にある。継続的な観察はいずれ堆積となり、それが定着していき、結晶となるが、「SHIYAKOZUKA」にはそれがない。モードの世界で慣例化されているような時間の堆積とは少し違う。その違和感に関して梶浦は、
「毎回リセットしているからではないでしょうか。もちろん自然と積み重ねはあるでしょうし、それが対外的なイメージにも結実している。しかし、そこ(イメージ)への執着はありません」とも。


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
とはいうものの、どこまで確かにして、どこまで概念的にするのか。日本語と英語の言葉のニュアンスの差異もある。それについて小塚は、「リセットしている分、まずは丁寧に進めることに集中しました。今季であれば確かさや明らかさは大事だった。でも、過剰に説明する服は個人的に好ましくない。だから使う言葉は変えずに、日本語だと少しぼかした言い回しが、英語で訳すと直接的になる。すると、明らかにならざるを得ない部分が出てくる。言葉によって服の解像度が選別されるのであれば、最後は直感に頼ろうと」。それから「例えば、雪を降らす演出も過剰といえば過剰ですが、今季に関しては有りかなと。そう思ってもらえるようなニュアンスを反映しています」ともいう。


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
過去のファッションは、もちろん当時の創造を物語ってくれるが、同時に、現在進行形のクリエーティブをも解き明かしてくれる。そこには幾許かの感傷、そして(彼等なりの)激した感情を抱いた折の記憶が存在する。小塚は、過去の威光を再び感じさせるものの、それでも、一部では、現代の我々の目には新鮮に感じられる要素を切り取っている。
今季の彼は、数千のボタンを縫い付けたピース、刺繍の紋章、重層的なパッチワークなどの偏執狂的な自身の初期の手仕事に紐付く表現をセルフオマージュしている。
痛々しいほど剥き出しの雄しべが微風に震え動く様子が、我々の耳には聞こえない、妙なる調べを聴いているとしか思えないほどに、繊細で、素朴で、ほっこりとさせてくれて、少しく不思議な、でも何処か逞しさもある、そんな印象を抱いたのであった。主題の云々に拘わらず、こうした印象は今も昔も大して変わっていない。


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
ストーリーテーリングを通した手仕事より生まれる恣意的なアイデアを独自のプリミティブな濾過装置を通すことで、こっくりと、奥行きのある愛らしいものたちに変換する創作には、ある種のロマンチシズムが通底している。それは、どのように見られたいという誇示ではなく、自分が何者であるかを自身に示して見せるという根本的な欲求としてのロマンチシズムである。創作道徳がそうしたロマンチックな情緒に裏打ちされているから、小塚の手より解き放たれた散文めいた作品からも、同様なロマンチックなプロフィールが垣間見える。


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
例えば、作品群の全編に渡るカタチ。深みのある黒を背景に雪が降るような柄を紡いだり、小塚の手書きの絵をモチーフにした細工が所狭しと組み込まれている。だが時折、幻想的な雪景色に集う民族にも映る。小塚は、
「『SHINYAKOZUKA』流のユニフォームの在り方です。僕等にとってユニフォームはその人のパーソナリティーを引き立てる。アーカイブになればなるほど、その色が濃くなっていく。そういう意味で民族性はユニフォームの範疇。そのユニフォーム性をもっと強く押し出そうとして作ったという意味では、民族的な意識がないわけではなかったので、そういう印象を受けたのだと思います」と返す。
その伝でいうならば、件のカタチは、銀河系の広がりを思い描いて制作されたとするのが妥当だろうが、図案の中に見られる強靭な筆触を盛った抽象的な画面構成が、見方によっては様々なイメージを生み出す、何とも不思議な魅力を持っている。彼は「何かを見せる」のではなく、「何かに見えるモノ」を「見せる」のであって、「何を語るか」ではなく、「どのように語るか」に身を粉にする作家であることを改めて示していた。
「民族的を拡大解釈すると、集合的な精神にも結実しますよね。そういったコミュニティー的な意識は確実に強くなっています。だからこそ、海外で発表を選択したというのもある。ウチの場合はロゴを象徴的に使いませんが、それがなくても“らしさ”を感じてもらえる。アイコニックとかユニフォーム感覚を常に考えながら、パンツのシルエットであったり、素材選びに向かっている。それが徐々に浸透してきたタイミングで今回はよりハッキリと…いや、最早誇張したと言い切っても良いくらい明確にしたことが民族的なイメージに結び付いたのだと思います。『SHINYAKOZUKA族』ではないけれど(笑)、現代においてそれ(集合の意識)がブランドに根付いているかどうかは重要なファクターになると思っています」。-梶浦


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
自分のうちに生じた曖昧模糊とした感情を、明解には限定せずに、ボンヤリとした状態のままで手放してしまう。しかしこのブランドの場合、不完全のまま放擲するのではない。必ずしも過剰には描かれない、という意味なのだ。単に言い切らないというのではなくして、そこに我々が埋めざるを得ない余白を設える。一方、我々は知らず知らずのうちのその術中に嵌り、楽しみながら余白を埋める仕儀となる。この駆け引きは巧みで、他の作家の追随を許さない独特の冴えを見せている。一口にいってしまえば、一種の間の良さである。一見して幼稚で稚拙に映るものたちが、自ずとリズムとテンポを奏でて微妙な間を作り出す。そして、それが物語の大胆な省略と飛躍を可能ならしめている。
小塚は「ウチには創訳というキーワードがあります。英訳するとTrance Creation。簡略すると、人によって受け取り方が異なる、の意ですが」と話し、こうも続ける。「兄が広告業界で働いているのですが、創訳は自分の世界では身近なワードだと教えてくれました。例えば、兄の友人が癌になってしまったのですが、なかなか通院していなくて、そういう時は促しても行きませんよね、でも春になって暖かくなると、『なんだか暖かくなってきたし』と言って、考えを改めて通院するようになった。そこには論理性はないけれど、何か良いなと思える。それをデザインしたかった」。
例えばAラインのコートも、ボタンという機能的なディテールを柄にしてすると見え方が変わる。無機的な細部を有機的な意匠にすり替える。このすり替えの妙を懐に隠している。しかし、小塚は「絶対的な1ルックよりも相対的な30ルック、これは僕はずっと言い続けていることです。それがそう感じさせることに起因しているかもしれません。無数のボタンを配したコートが象徴的に映るかもしれませんが、あれは意図的ではなく、コレクションの中で必要だから作ったという意識」なのだという。「信号とか看板のように移動していた片手袋という一見、無意味な存在が家とか灯台とか、そういった意味のあるシンボルに変わっていく。それがトランスクリエーション。ただ創訳自体も目的ではなく、あくまでも共感を生んだり、情景を浮かべてもらうための手段です」。
梶浦はこう付け加える。「伝わったかどうかなんてわかりません。ただ、そこまで考えているブランドなんだなという認識が広がるきっかけになっていたら良いなと思います」。


Photo: Courtesy of SHINYAKOZUKA
しかしまあ、小塚をファッションデザイナーと呼ぶにはどうもピンとこない。彼は個人の表現としての芸術作品の制作者とするのは少し違う気もする。端より彼は芸術作品を作ってはいない。だが、彼の意匠には作家性があり、しかもただ写実的な表現だけではない。
それは、運動と静止とにおけるあらゆる姿態を、見て、見て、見て、完全に自分のものとしているところから来ているのである。
そういう、見て、見て、見て、それをギリギリのカタチと柄とに絞り上げる作業の積み重ねが、彼の作品の恰幅になる。もちろん、表面だけでは、どうも整わない表現を補完する作業があって実現可能な作品である。しかし、そうはいうものの、こちらに見ようという気持ちが芽生えないと、見えてこない。なんでもそうだといえばそうだれけど、彼の作品は、至極普通の様相を呈しているので、余計にそのことを感じる。こちらの観察の態勢が、一旦彼の作品に照準が合った時に、そこに見えてくる微妙さと的確さは凄いものである。二人は最後にこうも話す。
「このコレクションがこれまでのベストだったかどうかは僕が判断することではありません。ただ、最もすべてに理由があるコレクションだったと思います。あとは冬、月、散歩。そしておかえり、ですかね」-小塚
「創訳と原点回帰。いま小塚が言った『おかえり』には、回帰的な意味もあると思います」-梶浦