Chika Kisada|時代の産物か仮構の思想か、楽園への旅は始まったばかり

Chika Kisada|時代の産物か仮構の思想か、楽園への旅は始まったばかり

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

巧みな章立て、大胆な展開、ハツラツとした文体、気の利いた修辞表現。ストーリーテラーとしての抜群の旨味を発揮していたデザイナーの心情を見て、感じ、そして綴るという行為は、取りも直さず今シーズンの楽天ファッションウイーク東京にある大きな潮流を辿ることになる。いきなり話の腰を折って雑ぜ返すわけではないが、ブランドの内面にある生来の「ひん曲がり」な気質や「天の邪鬼」な気性が、どうやらシーズン全体の勘所になっているようである。偏屈から柔軟性は生まれてこない。ただ、茶目っ気のあるしなやかな強さを持つブランドには惹かれるのだ。

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

これまでの稿でも触れてきたが、ファッションショーにおける「スペクタクル」の解釈が変わってきたように思う。それはかつて、派手な舞台装置、演出を味方につけた豪快かつ壮大、見せ場というに相応しいショーを指していた。いまにして思えば、服の世界観を、突き詰めれば、ブランドの世界観(イメージとしてのブランドの規模、立ち位置を含めた)を描出、誇示しようとの狙いが前述した「スペクタクル」の背景にあったように思う。だが、今季の「チカ キサダ」が用意した舞台型演出、劇場(レッスンルーム)式空間は、そっと「生な」な感じがプンプンと漂っていて、往時とは様子が違う。幾左田 千佳の息遣いや回想(それはいい記憶だけではなく、思い出したくもない苦悩の日々も含めた)が隅々まで感じられた。幾左田はひとつの観念(創意)から史料(素材)に及び、ブランドの根底に植えたバレエの古典と形式、そして虚構を巧妙緻密に嵌め込む事で、虚と実、作品と世界観の間を縫って、ドリルの刃のように螺旋を描(歩)きながら様子式化、視覚化された、現代の御伽草子のような幻妙で不可思議な小宇宙をそこに創出するのである。見る側はひとつのショートムービーのような、ドキュメントのような、幾左田の脳内を循環するような、砂嵐で霞んだ景色を眺めるような、そんなあたかも幻想施設へ迷い込んだかのような錯覚を存分に享受することが可能な、そんな仕掛けである。そうした手法には、幾左田が服で描こうとする世界観を十全に補償する可能性が蔵されていることも確かである。

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

生身の人間の躍動感を服の設計はもちろん、ショーの演出にも存分に盛り込む。空間、時間、自然(ここではありのまま、飾らない、肩肘を張らない、生身、を指す)と新たな絆を紡ぐなかで、躍動する身体の美しさを別の視点で表現するという着眼を幾左田は「砂漠の花」と題した。「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを堪えている文体、夢のように美しいが現実のように確かな文体、私はこんな文体に憧れている」と語るのは、振付師との協業や壮大な記録資料、作品、アーカイブなどといった明確な着想ではなく、あくまでも自身の着眼と脳内に媚びり付いて離れないでいる残像。それはカサブタのようであり、それを剥がす作業でもあるかのようにも映る。カサブタを剥がす仕草は誰しもが経験するだろう。それは痛み、痒み、そして腫れ上がってしまい、傷跡として残りやすくなるが、どうしてもそれをしないではいられない瞬間がある。幾左田の服作りを見ていると、痛み悶え苦しむこともあるにも拘らず、それをせずにいはいられない。そんな人間らしさも垣間見える。とはいうものの、全体像をスピリチュアルな表現主義で占めて緊張感で身を包み、躍動の柔軟性と力強さから幻想的な雰囲気を引き出す。ギリギリまで引き算を施して余分なモノをすべて削ぎ落としたしなやかさたるは、超然と強くさえ見えるモノだと得心させられたのである。プロットの筋書き、細部の描写、欺様な主題設定などまだ虫に喰われたように荒々しい箇所はあるがそれでも気性で圧するその強さたるや、手際の良さは幾左田ならではといえよう。

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

人間の身体が備え持つ本質的な森羅万象のエネルギーへの言外の言及。身体の制御と解放において同時に内包されるこのエネルギーこそ、厳格な規律であり、自由への希求とすることが大筋のプロットであり、作り手の拠り所となっているのだろう。軽快さと究極の柔軟性のなかに幾左田流のエレガンスの本質を探る試みは、ボディコンシャス、アンダーウエア、軽やかなスーツやコートとチュールのレイヤーリングと淡いカラーパレットに染め上げ、軽さと躍動感の象徴であるスカートやチュールを全篇の土台に添えて、スタイルを補完。ドレスはこれもチュールの緯糸の如く漸次稀薄になるよう軽やかに設計され、コルセットは散見するが、服地全体がそれ以上に心のプロテクトをしているような像を帯びている。クラシックの原理を掻き乱し、異物と異物が擦れるようなハーモニー音は視覚的な記憶と連想し、リラックスしたシルエットへと際立たせる。

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

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もうひとつの起点となるのが楽園思想。それは、花に囲まれ、植物の手入れに情熱を注ぎ、生息する生物の目録、植物の種の記録を残す植物標本の如く、百花騒乱と咲き乱れる様とは対を成す。苦悩や霞みさえもパラダイスのなかにあり、それが自らの心情が生い茂る仮構の世界(楽園)である。刹那的な仮構の楽園という情景であり、概念はここ十数年語られている「インクルーシブ」的な考え方にも一矢を報いる。強烈な色彩感覚と精緻を極限までタッチされた手仕事、情緒的な雰囲気を投影した装飾性を突き刺すかのようなあるがままの姿。それは、形や量感を際立たせるための引き算の原理であり、関心は装飾性そのものから個性へ、物から個人へと移行する様でもある。排他的、独占的ではなく、あくまでも包括的という考え方に根差している。贅沢よりも簡素、マキシマムよりミニマムであり、面目躍如たる拘ったテーラーリングにそれらは裏打ちされている。包括的な幾左田の庭園は、時代の産物として表出した楽園思想と重なることで、奇しくも「現代において個人、個性、気質、気性とは何か」という自他に向けた問いかけを提起することであり、自身がその解答を求めていく過程、それ自体が楽園への旅でもあるのかもしれない。

Photo: Yuki Kumagai / Courtesy of Chika Kisada

>QUOTATION FASHION ISSUE vol.39

QUOTATION FASHION ISSUE vol.39

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