「跋」QUOTATION FASHION ISSUE Fashion Director 麥田俊一
跋
「○○さん(私はそこでは変名で通していた)が呑んでいないところを見たことは一度もないわよ」。「私は呑んでいて恰度良いのさ」。「そんな呑み方して身体に良いワケないのじゃない?」。「良いものなんか何もないよ」。「それがあなたなの?」。「私はそのどちらでもないよ」…「だから呑んでいるのさ」。
陰気な呑んだくれが一握りがとこと、何もかも悪くなっているのはわかっているのに、それが良くなるのを待つのはもうやめた、と云った顔のバーテンダーがひっそりと居るだけの地元のバー。偶に横に座る、結構年下のオフィスガールのくせに、やけに気の強い女と交わしたこうした会話も随分と昔の話。コロナ禍を境に馴染みのバーは軒並み店仕舞いした。
酒に逃げ込む弱い私は、またぞろ編集部のS君に迷惑を掛けてしまった。今は午前五時。すっかり酒気も醒めている。校了してかなり日数を経ててこの稿を書いているから、少しく間の抜けた感じがしないでもないけれど、シラフで原稿を書いたってバチは当たるまい。それに、今の私には、こうして文字を書くことが何よりの救いでもある。他処でも書いたし、小誌でも書いているから、同じことは書けないけれど、私が何故「ピリングス」の村上亮太に固執しているか。そのあたりを違った角度から言及して見たい。
村上は独自の言葉でファッションデザイン的な創作のベクトルを、それが本来目指すべき方向とは少しく違った方向に立てたデザイナーの一人で、変革者とは云わぬまでも、彼のものする散文式創作には、他のデザイナーとは違う妙味がある。愛らしいものたちを主役とした散文に、軽やかさ、優雅さ、伸びやかさ、それに多少の卑俗さをもたらすところに彼の独特な流儀がある。手作り感覚の、時に私小説的な臭いがプンプンと漂う彼の散文は、重さや実体を欠いている風を思わせるが、激しく吹き寄せて我々の脳裏に様々なイメージとビジョンを呼び起こす特性を持っていて、彼は番度、数々の言葉を蘇らせ、生き生きと躍動させ、舞い踊らせるのである。
村上の作品に描かれている日常の営みは、例えば、帰省の折に乗車した夜行バスの車内風景とか、車窓を容赦なく流れていく変哲のない景色とか、或いは、ありきたりの情熱と云った、普遍的で紋切り型の日常ではなく、彼の創作道徳で変換された日常である。それが都会的であるか、はたまた現代的であるかは、さしたる問題ではない。あまつさえ見様によっては、多少の誤解を招くと云う危険を孕んでいるが、そこが村上のチャームポイントなのだ。
彼のなかでほどよく熟成された日常の象形は、絶え間なく変化し、変化することで自らを創造し、自らを創造することによって生き続けてゆくだけのこと。だから、それを享受するか否かは、受け取る側の度量(感性と云えば薄っぺらに聞こえるけれど)の問題なのである。驚くほどにあっけらかんと、時には間の抜けたようにいながらも、確りと、愛らしいものたちに温かな物語を語らせる村上の創作手法に於いては、道端の雑草が逞しく繁茂し、満天の夜空に散った星が煌めきながら巡り、血液が我々の体内を流れてゆくように、極めて自然に、日常的なものと、きっと我々の周辺にあるに違いない非日常的なものが一つに結び付くのだ。散文に秘められた村上の紡ぐ一篇の詩は、一抹の切なさと、思わず微笑させるユーモアと境界を接していて、それは冷酷な審判者であると同時に、心ある共犯者でもある。
麥田俊一